ウンスの話しでは、ウンスのいた現代で、ここは大きなテレビ塔なるものが建ち、この川岸には
沢山の建物が
探索四十建っていてそこは、中国ではないような光景になるということだった。
(黄浦江に面する川沿いの外灘 (The Bund) は、上海海関、香港上海銀行などが立ち並びヨーロッパ調の風情を感じさせる建築群として知られており、上海のシンボルにもなっている・・・租界と呼ばれていたころの建築を残す場所なのだ。)
しかし、南宋時代の代表的な貿易港は、上海から少し南下した抗州湾の寧波であった。
南宋では慶元府、元代には慶元路と称された。
(2度目の元寇、1281年の弘安の役では、江南軍10万、約3500隻が日本へ向け出港した。)
高麗へくる南宋の貿易船もこの港から出港しここへ帰港する。
このころ高麗の国際的貿易港として栄えていた碧瀾渡も元の侵攻のために様変わりしていた頃だったので、テジとドンベクは、碧瀾渡の物を半島南部の自分達の商団から南宋へ持ち込む算段で準備していた。
朝廷が右往左往している隙をついて商
孔聖堂 校風 売を起動にのせるのだ。
それと並行してテジとドンベクは、倭国との貿易にも乗り出していく。
もともと、宋との貿易が盛んに行われていたのだから・・・。
ドンベクは、対馬から・・・。
テジは、九州から・・・。
以前と違うのは、自分達が食する物は、自分で作る・・・農業をしようというのだ。
高麗では、農地を手にいれるのは難しい・・・ならば、上海で・・・。
ウンスの読みは、的確だった。
このころに河南で大規模な干拓事業が開始されるのだった。
広大な沼地が干潟になるのだ。
もともと中原は、河南のもので河北を養っている様な産業形態だった。
これは、現代においてもさほど変化していない。
これが、顕著にあらわれたのが、モンゴル帝国のころだ。
狩猟民族の彼らは、同じ場所で農耕するという経験が全くない。
家も家族も家畜をも連れて移動する。
侵攻するときも同じで、兵糧が底をつきかけると後から追いかける家族と家畜がいる。
その家畜を食料にすればよいので・・・どこまでも移動して行けるのだ。
そんな彼らが、大都に貴族として落ち着き居
脫髮住をはじめると、大都は食料不足に見舞われ始る。 だから、南宋が必要だった。
これは、モンゴルの弱点であった水軍力を強化するためでもあったのだ。
子供達は、各々の役割をこなしながら成長していた。
商団を手伝ったり、稲作をしたり、また精塩事業を興すテジに同行したり・・・。
小さな商店から始まった「譚龍」も僅か3~4年で大きくなり、「譚龍商会」と名を変えて上海の
中心に大きな商館を建て商売の拠点とした。
1256年・・・メイが皆に自分の心を語りだした。
どうしても、絵を学びたいというのだ。
宮廷の画院で手ほどきを受けたいと・・・。
女人の身で絵を学ぶ・・・当時・・・朝鮮時代ですら認められないことだ。
メイの決心は固く・・・ならば男になっていくというのだ。